熊本市観光

熊本城の歴史について

熊本城「熊本城が歴史の表舞台に登場するのは、1877年、明治10年の西南戦争です。薩摩軍の大軍(13000名)を迎えて52日の籠城に耐え「難攻不落、鉄壁の要塞」ぶりを遺憾なく発揮しました。西郷隆盛はのちに「政府軍に負けたのではない、築城した加藤清正公に負けた」とこぼしたそうです。

その加藤清正公(1562~1611)は、1588年27歳の若さで肥後の北半分の藩主になります。清正公はすぐに、全域で河川改修などに取りかかり、堰や用水路を数多く整備し大規模な水田開発を行います。のちに「土木の神様」と崇められるゆえんであります。1600年の「天下分け目の関ヶ原戦い」で徳川軍(東軍)につき、54万石の大大名になります。

熊本城は通説1601年~1607年足かけ7年の歳月をかけて完成させました。広さは、なんと98ha(東京ドーム21個分)周囲は5.3キロあります。熊本城は日本三名城の1つに数えられています。地震前まで「行ってよかった日本の城」で3年連続日本一でした。

広い城郭の中に往時は櫓、櫓門、城門合わせて、なんと110以上の建物群が林立していました。熊本城は広さといい、櫓の数といい、井戸の数といい、すべての面において、やり過ぎの城と言えます。よくぞ莫大な築城資金があったなと驚くばかりです。


日本の三大名城は加藤家が築城

熊本城当時、肥後の石垣普請の技術は全国トップクラスで、天下普請で現在残っている江戸城、大阪城そして名古屋城などの重要で難しい石垣は加藤家が築城(江戸城の北はね橋や富士見櫓、大阪城の天守台や大手口、名古屋城の天守台等)

熊本城は、徳川幕府の天下普請の江戸城、大阪城、名古屋城に匹敵するお城で「日本の城の代表格、シンボル」と言えます。


城内に掘られた120基もの井戸の謎

熊本城清正公は韓国の蔚山城の籠城戦(1598年の秀吉の朝鮮征伐)で九死に一生をえます。生きるか死ぬかの経験や清正公の心配性の性格もあり、城内に120基以上の井戸を掘りました。今でも30本以上の井戸が残っています。本丸には40mの深い井戸が2本あります。

なぜ120基も井戸を掘ったのか、掘れたのか、小天守の地下通路は本当か お城で一番高い石垣は本丸にあるか(深さ40m)。本丸がある茶臼山には阿蘇火山で噴出した阿蘇溶結凝灰岩が約40m~70m分厚く堆積している。この凝灰岩は掘削が用意でほぼ自由に縄張りが可能な台地であったようだ。溶結凝灰岩はスコップで掘れたので120基も井戸ができたのであろう。伝説では小天守の井戸には横穴の地下通路が掘られていたという。


二の丸広場の今と昔

熊本城熊本城の城域は「東に高く西が低い台地」です。ここの二の丸も低く平坦に出来ていて防御施設が大工事でした。北は堅牢な百間石垣、南は高い崖や石垣、西は二か所の空堀、東は深い薬研掘りです、清正公も二の丸の西から攻められるのを大変、懸念されていました。

西南戦争(1877年)の時に、薩摩軍は熊本城に最初襲いかかります。西南戦争より24年前、鹿児島の島津篤姫がここの二の丸を通ったと伝えられています。時期は1853年8月下旬のことです。休憩時に熊本の名産、スイカを美味しく食べたとの資料もあります。江戸時代、この二の丸周辺には家老や重臣の屋敷が多数ありました。その屋敷の中になぜか街道がありました。県立美術館、隣りの住江門を入り、二の丸広場に出ます。二の丸広場から東に見えるのは天守等の巨大な建物群です。参勤交代の時、熊本城を目にした薩摩藩主はお城のあまりの大きさに度肝をぬかれたことでしょう。

二の丸に1755年、6代藩主の細川重賢が設立されたのが時習館です。肥後の英才たちが文武の教えを受けていました。千円札になる北里柴三郎も時習館で学びました。

時習館以外の主な施設を紹介します。現在では四季の植物が楽しめる監物台樹木園もあります。博物館の北側に大名屋敷の細川刑部家屋敷が移築されました。博物館には細川藩の御座船「波奈之丸」が展示されています。

熊本城の復旧について

熊本城平成28年4月16日の本震などでお城は大きく被災しました。天守閣の瓦や鯱がはがれ落ち、重要文化財の長塀もおよそ100mに渡り倒壊。石垣7万9000平方メートルのうち2万3600平方メートルに崩落や緩みなどの被害が発生しました。

重要文化財に指定されている建造物13棟全ての建造物が被災し、なかでも東十八間櫓、北十八間櫓は全壊しました。かろうじて残った石垣で支えられ、奇跡の一本足の飯田丸五階櫓の姿を覚えておられるかたもおられると思います。完全復旧は20年後、総費用634億円が見込まれています。